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2007年08月12日

ある塾長との出会い

 昨日は日帰りで東京に行ってきました。高速道路を使いましたが、往きは逆方向、帰りは深夜だったので渋滞に巻き込まれることはありませんでした。それでもいつもよりずいぶんと交通量が多く、パーキングエリアも混雑気味。

 往きの反対車線は東京から地方に向かう自動車で大渋滞をしているのを横目で見ながら、やっぱり日本人にとってお盆の帰省や行楽は「民族的行事」なのだと再認識しました。

 そんな中、交通事故も各地で多く発生しています。暑さも半端ではありません。猛暑日が続き、各地で熱中症や水の事故も多発しています。十分にお気をつけ下さい。

 今日はお世話になった学習塾経営者を偲ぶ会に出席させていただきました。当地(新潟県上越市)で「井手塾」を主宰されてきた井手信久先生が、過日病気でご逝去。先生を偲んでのご葬儀が執り行われました。

 先生がたった一人で始めた個人塾が、いまや塾生2,000名を超える大きな学習塾にまで成長しています。子どもたちへの教育にかける情熱が、大きく花開き、実を結んできた証です。

 私の子どもたち3人は、みなこの塾でお世話になりました。それぞれ中学や高校の受験を通して、教えられたものがとても大きかったことでしょう。単に受験に役立つ学習だけではなく、学ぶということは何であるのかを考えさせられ、その中から生きるということについても、きっと何かをつかんでいったのではないかと思いっています。

 実は私は最初から塾での学習に賛成していたわけではありません。むしろ否定的だったかもしれません。私自身が受験勉強をしたのは公教育である学校が中心であり、予備校や通信教育は補助的だったからです。学校での学習にしっかり取り組んでいればそれで十分だとさえ思っていました。

 しかし、私の子どもの様子を見ていると、どうも違うようなのです。学校教育の現場では「落ちこぼれ」が問題になり、文部省(現在の文部科学省)は教える内容を平易なものにするという「ゆとり教育」を始めたことでした。そんな中で、学校の授業だけではなかなか学力が育ってこないことを感じていました。しかし、それがどうしてなのかが分からず、釈然としない思いをもっていました。

 それが良く分かったのは、中学の授業参観に行った時でした。英語の授業でした。英語を話せる外人が助手になっていますし、生徒たちに興味を持たせようと授業内容に変化をつけている様子が良く見て取れました。先生方もいろいろと工夫され、努力はしているようでした。でも・・。

 生徒たちに楽しく学習させようというねらいは十分に達成できているけれど、でもそれで英語の実力ができるのだろうか、という疑問を同時に持ちました。

 「日本の子どもたちは中学や高校で英語は習ったのに、英語で会話することができない」という批判もさかんにされていた頃です。聞き取ったり話したりする力も、英語教育の中で重視しようという考えが出てきているのは当然のことです。

 でも、英語を勉強するのはそれだけではありません。母国語とは異なった言語である英語を学ぶことを通して、英語圏内の人たちがどんなふうに考えたり、物事をとらえているのかを知ることも大切です。私たちの精神活動が言語を作ってきましたが、逆に言語によって制限されたり誘導されたりしている面も多々あります。「異文化」を知るための一つが、その国や民族の言語を学ぶことです。

 また、英語の文法を身につけることによって、論理的な思考力が育つようになります。「英語は文系の人間よりも理系の人間の方が良い点が取れる」と言ったら、多くの方は賛成しないでしょうね。受験英語では論説文の方が多く出題されるということなのですが、ある程度理詰めで回答していくことができるのです。

 余談になりますが、これは国語も同じ。受験ではやはり論説文が多いので、理系が得意の人の方が解きやすいのです。理系の受験生はそのことに気づかず、国語や英語を毛嫌いしているのはもったいない話です。

 しらない単語や熟語が出てくると、それを前後関係から類推しなくてはいけません。その能力というのも、直感の部分もありますが、やはり論理的な考え方が必要となってきます。つまり、英語文を多く読むことは、論理的な思考が育つということになります。

 単語や熟語をたくさん覚えなくてはいけないというのも、英語が嫌われる点かもしれません。イヤでしょうが、ある程度は覚えなくては英文を読むことはできません。この部分はあきらめて記憶してもらうことしかありませんが、でも英単語を記憶しようとすることが、頭の構造を変え、記憶能力を向上させることにつながります。けっして単語を1,000個覚えたから、他の勉強からその分の知識を忘れてしまうことはありません。記憶能力は、トレーニングによってさらに高まるのです。

 そんなことを、自分の受験勉強などから感じていましたが、当時の私は塾や予備校に悪いイメージをもっていました。学習のやり方だけを教えて、試験の点数はあがるかもしれないが、学校教育の中で求めているさまざまな能力の向上には必ずしもつながらないではないか、と。

 ところが学校の授業を目(ま)の当たりに見て、180度変わりました。自分が受けた学校教育とは、もうずいぶんと違っているのだと。子どもに興味をいただかせようとしてはいるけれど、そもそも英語教育の形ができていない。それを家庭学習で補うことも無理。

 当時はまだ塾での教育に「半信半疑」ではありましたが、井手塾長にお会いして、先生の語る教育観にいたく感心をし、共鳴しました。先生は、私が受けていた当時とは公教育は全く変わってしまっていると指摘されました。そして、基礎的な学力すら学校では作ることができていないと。塾で取り組んでいるのは、むしろオーソドックスな学習法でした。

 数十人の子どもたちを対象に、一つの教室で、先生が板書をしながら講義していく・・そのスタイルは、学校の授業そのものです。その内容も、問題の解き方を教えるのではなく、基本的な内容から一つひとつ積み上げている方法をとっています。これは、むしろ学校教育の中でできなくなってきたことを、あえて塾で行おうという姿勢です。

 ここまで来て、私の塾に対する考え方は正反対のものになりました。「否定的な考え方」から、学校でできないのだから仕方なく塾に通うというような「消極的な肯定」に、そして最後は「積極的な肯定」へ。

 塾長先生には何度かお会いする機会がありました。直接には子どもの成績についての面談でしたが、それだけにとどまらず、教育観についても、社会問題についても、私の取り組んでいる医療の世界についても、多くをお話ししていただきました。稚拙ですが私なりの考えを述べさせていただくこともありました。そんなことを通して、私の考え方も理解していただいていたようにも思います。実は何度か先生は私の医院に診療に来られていますが、私を信頼していただいたからだとすれば、この上ない喜びです。

 学校では出会えなかったような、教師らしい先生でした。私の子どもたちも、みな塾長先生を慕っていました。その恩師が病気で亡くなられたのは、とても残念なことです。まだまだ多くの子どもたちが、先生の直接のご指導を待っていたことでしょう。私のように、親なのに先生と接することでたくさんのことを学ぶという機会も、もうありません。

 井手信久先生。享年72歳。言葉では表せられないほどお世話になりました。心より、ありがとうございました。

投稿者 tsukada : 2007年08月12日 22:37