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2006年06月05日

犯人の深層心理

 最近、子どもたちが犠牲になる事件が目につきます。それも悲惨な形のものが多く、気持ちが滅入ってしまいます。

 昨夜は秋田県で、2軒隣に住む男の子の殺害に関係して、死体遺棄の疑いで女性が逮捕されました。ニュースでは繰り返し取り上げられていたのでご承知でしょう。殺害そのものも実行していると見られています。その1か月ほど前には、自分の娘が亡くなっています。警察は当初「事故」との見方をしていましたが、そうではなく何者かによって殺された「事件」である可能性もあり、あわせて再捜査されているとのことです。

 もしかして、女児の「事件」にもこの女性・・つまり実の母親が関係しているのではないか、などという推測も生まれています。もしそうであれば、常人には理解不能の事件です。二人を殺して動機は何だったのでしょう。その背景にあるもの、そのような異常な行動をとらざるをえなかった心の闇に隠された深層は、いったいどんなものだったでしょう。

 これは仮定の話ですが、もしも彼女が自分の子どもを殺害し、河原に遺棄したとしたのなら、警察がこれを「事故」と処理してくれるのは彼女にとっては好都合なはず。犯人にとっては、それが犯罪として捜査されないということは、いわば「完全犯罪」になるのですから。でも彼女は「事故ではない、警察はおかしい・・」と触れ回っていました。彼女が犯人だったとしたら、自分に不利になることをするはずはないので、やはり彼女は自分の娘には手をかけていないのだろう・・そう考えるのは、また自然なことでしょう。

 しかしその反対に、やはり彼女が犯人だったという推測も成り立ちます。それは、娘の死が「事故」ではなく「事件」によるものだとすることで、自分の存在を社会の中にアピールすることができ、その結果として自分自身で確認できるようになるからです。何者かによって殺された可哀想な娘の、たった一人の可哀想な母親であり続けることが、彼女には必要であったのだと思います。社会から、「悲劇のヒロイン」「警察にも冷たくされながら真実を探し求める母親」「娘の死を悲しむ可哀想な親」と見てもらうことが、どうしても必要だったのではないか。

 昔の逸話に「ほら吹き男爵」がいます。いつも荒唐無稽な大嘘をつきまくっている男の話です。そこから発展し、その男の語る物語が悲劇であり、世間から同情されたいと願って、繰り返し大きな嘘をついたり、自分を傷つけたりする行動をとるのを、「ミュンヒ・ハウゼン症候群」と言います。精神異常の一つです。自分のアイデンティティー(自己)が確立しておらず、歪んでいて未熟な自己を確認する方法の一つとして、こういった異常な思考や行動をとるのでしょう。

 ミュンヒ・ハウゼン症候群は、傷つける対象が自分に向かっていますが、それが他の人を対象にするものを「代理ミュンヒ・ハウゼン症候群」となります。自分の子どもをわざと病気にさせたり、怪我を負わせておいて、その子を献身的に看病することで、自分の自己を確認する方法です。自分でも「良い親をしている」と思うことができるでしょうし、他人からも「子どものことにすごく熱心に、自分を犠牲にしてまで尽くしている理想的な親」と見てくれることで、間接的に自分の存在を価値あるものとして確認できます。もちろんそのために犠牲になる子どもは可哀想ですが、「自己を確認する」ためには、子どもは単なる道具でしかなく、子どもに対する罪悪感もないでしょうし、自分が病気や怪我の原因を作ったことすら、意識の中には残っていないのではないかと思います。

 話は元に戻りますが、秋田で逮捕された女性は、この「代理ミュンヒ・ハウゼン症候群」と同じ思考回路なのではないか、と思えてきます。つまり、良い母親を演じ続けるためには、子どもの死は「事件」でなくてはならないのです。そして、警察や社会が「事件」であると考えてもらうためには、「第2の事件」が必要だったのです。同じ団地の中で、同じような状況で殺される犠牲者が必要だった。それが、今回の逮捕容疑である死体遺棄事件(そしておろらく殺人事件)の被害者だった・・。

 そう推測すると、彼女の動機を理解することができるようになります。これはあくまでも推測でしかありません。今後の捜査を待たなければ全ては解明されませんので、予断をもってはいけないでしょうし、軽々に推論を公表すべきではないかもしれません。

 でも、昨日の朝の取り調べから始まって、ずっともやもやとしていたものが、彼女の深層心理を推測することで、やっと晴れてきたような気もします。そして、人格やパーソナリティー、あるいはアイデンティティーの形成がきちんと行われていないことが、これからの社会の大きな問題になっていくのだろうな、と実感したしだいです。「こころ」のありようが、ますます難しくなってきた社会なのだ、とも感じています。

投稿者 tsukada : 2006年06月05日 21:56