« 12月でなくても大雪 | メイン | 明日から大雪 »

2005年12月19日

「非国民」

 今日も日本中が大雪。今週いっぱいはこの悪天候が続くとのこと。週末は確実に「ホワイト・クリスマス」になるでしょうね。ひらひらと粉雪が舞うようならかわいいのですが、どそんと降り積もった雪に囲まれてでは、クリスマスの雰囲気はだいなしかも。それまでには寒気が落ち着くといいですね。

 先日、「非国民」の文字がニュースに出てきました。どうしても見逃すことができない問題があるので、とりあげることにします。

 このニュースというのは、ある中学の歴史の授業でのできごと。教師が戦時中の「召集令状(赤紙)」を生徒に配り、戦争に行くかどうかを答えさせ、「行かない」とした生徒に「非国民」と書いて返したというものです。

 学校も教育委員会も、生徒が心の傷を負ったとしたらケアするとは言っていますが、授業として問題はないとしています。ほんとうにそうでしょうか。授業そのものが大きな問題を持っていることを、指摘したいと思います。

 戦時中は「赤紙」一枚で兵隊として召集されていきました。それは事実です。しかし、太平洋戦争は基本的には日本がおこした侵略戦争です。その犠牲になったのは、戦争をしかけられた外国の兵士と市民であり、日本人の一部の支配者を除いた兵士と市民です。

 多くの兵士は、国のためという大義名分のために徴収され、戦争の最前線にかり出されていきました。そして、多くの大切な命を失う結果になりました。戦争の悲惨さを物語る一面です。

 でも、ひとたび兵士として前線にたてば、人を殺し、物を破壊することだけが彼らの役割になります。そこでは「命を大切にしたい」などという思いが尊重されることはありません。相手を殺し、自分も殺される状況の中に追いやられています。ここに戦争のもつ理不尽さがあります。

 この先生は、戦争に徴収された若者たちのことを思ってはいたのかもしれません。しかし、彼らが兵士として戦争でどんな役割を担うことになったのか、ということには、思いは至っていなかったでしょう。日本兵によって殺された外国の人たちがたくさんいたという事実を、忘れています。

 歴史の中でぜひ考えてほしいのは、戦争のもつ意味合いと、何が行われていたのかという事実です。それを見ずして、その中で命を落としていった日本の若者だけを問題にするのは、間違った方向に向かってしなうのではないかと思うのです。

 1945年(昭和20年)、日本が敗戦するという形でようやく狂気の戦争は終わりました。その後の日本は、自ら戦争することはせず、戦争で人を殺すことも、殺されることもなく、今まで60年間を過ごしてきました。それは歴史の事実です。そして、それができたのは敗戦後に作られた日本国憲法の存在があったからです。

 憲法9条には、日本は紛争解決の手段として戦争することは永久に放棄すると書かれています。不戦の誓いです。

 今の憲法に対する批判もあるでしょう。戦後、日本を支配していた主にアメリカによって強制された憲法だとか、時代にあわないとか。憲法修正の議論が高まっていることも承知しています。でも、今の日本の憲法は、これです。

 日本のあらゆる法律は憲法の理念にそって作られています。国民の公僕である公務員も、憲法を守ることが職務上の義務です。その憲法に、戦争はしないと書いてあります。つまり、学校の先生方は「戦争をしない、戦争には行かない、行かせない」といった原則が、その授業の根底にはなければなりません。

 今回の“事件”に戻って考えてみます。社会科教師は生徒たちに「召集令状が来たら戦争に行くか、行かないか」を問うています。憲法の規定にそえば、「それでも戦争には行かない」「戦争をやめさせる」といった答えになるのは、当然のことなのです。

 さらに、この教師は戦争に行かないと答えた生徒に「非国民」と非難したということです。当時のことを考えれば、もし「非国民」とされれば、「治安維持法」違反として、特高警察などから摘発されたことでしょう。拷問を含む、きわめて厳しい追及があったに違いありません。あるいは、市民の中でも迫害に近い状態におかれたかもしれません。「戦争に行かない」「人を殺したくない」「自分も殺されたくない」「家族を大切にしたい」・・そんな思いがあっても、それを実行するのは、命をかけるほどのことだったはずです。

 戦争で多くの若い命が失われたことを忘れてはいけません。でも、同時にあの非常時で「戦争には行かない」と意思表示をし、殺されていった人たちがいたことには、思い至ることはできないのでしょうか。それでも「非国民」とレッテルを貼って非難することができるのでしょうか。

 日本人は、ともすれば集団行動をしがちです。みんながそうしているから自分もそうする。自分の意見を表明すると「浮いて」しまうので、控えめにする・・。謙遜かもしれませんが、度が過ぎています。それを時の権力者が利用すれば、簡単に日本人全体が一色に染まっていまいます。あの太平洋戦争は、そんな中でおきたのではないでしょうか。

 そうだとすれば、戦争に非協力な人を「非国民」とレッテル張りすることで、日本人を特定の考え方しかできないようにマインド・コントロールしていったとも考えられます。すべての国民を、戦争に積極的に協力し、招集されたら喜んで戦場に飛び出していくという考えに従わせる、精神的な道具になっていたといえます。

 そんな意味合いをもつ「非国民」という言葉を、戦争に行かないという勇気ある意思表示をした生徒に投げつけるのは、恐ろしい暴力です。そんなことが、公教育の中で行われていいのでしょうか。

 今回の問題は、とても根の深いものがあります。一人一人の生徒を大切にする・・そこに教育の原点があります。違う意見があるときに、それを「みんなとは違うからダメ」といって排除することは、もうやめて下さい。逆に、どんな意見をもっているのか、それはなぜなのか・・ 生徒たちの考えを丁寧に引き出し、みんなで議論を深めていく教育になっていってほしいです。

投稿者 tsukada : 2005年12月19日 18:03

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
https://www.kodomo-iin.com/mt/mt-tb.cgi/149

コメント

いつも日記を拝読しています。
この問題の教師についてですが、
本当に生徒を「非国民」と批難したのでしょうか?
「戦争に行かないと言ったら、
 こんなふうにレッテルをはられて
 白い目で見られる時代だったんだよ」
というふうに、教えたかったのではないでしょうか?
細かい背景がわからないので、何とも言えませんし、
この教師のしたことが正しいかどうかというと、
教えるための方法としては、やはり
間違っていたのだろうと思いますけれど‥‥。

投稿者 赤牛 : 2005年12月22日 11:55

 コメントいただき、ありがとうございました。

 この件については、毎日新聞の記事にやや詳しく報じられていました。以下にそれを引用してみます。

-----------------------
 町教委の説明によると教諭は10月27、31日に「第二次世界大戦とアジア」の授業をした。教諭は副教材に掲載されている「臨時召集令状」をコピーし、裏面に戦争に「いく」「いかない」の、どちらかを丸で囲ませ、その理由を記入させた。
 「いく」「いかない」の意思表示をしたのは208人で白紙が10人。「いく」理由は「当時としては仕方がない」「家族を守るため」など。「いかない」は「家の事情」「今はいきたくない」などだった。
 「いかない」と回答した女子生徒の一人が、理由に「戦いたくないし死にたくないから。あと人を殺したくないから」と書いた。これに対し、教諭は赤ボールペンで「×」印を付け「非国民」と書き入れて返した。

投稿者 Dr.ジロー : 2005年12月22日 16:23